「自分はコミュ障ではないか」と疑う人もいますし、「自分はコミュ障だから云々」と決めつけてしまうタイプの人もいますね。
「コミュ障」はざっくりした概念であり、病ではありませんが、コミュニケーション能力が低いなら低いなりの努力もできますし、反対に無理に落ち込む必要もないのです。
チェックしてみましょう。
かなり分かりやすい指標の一つがこれです。
月に何度も「空気が読めない」と指摘される人は、少なくともコミュニケーション能力が高いとは言えないでしょう。
日本特有の「空気」と言われるような曖昧なものを、どう読んだら良いのか。
そこで迷うのが「コミュ障」の人の大きな特徴でもあります。
ただし、異文化圏への留学・赴任から戻ったばかりであるとか、特定の業種や職種の慣習に慣れていないなど、事情によっては誰でも言われることはあります。
コミュニケーション能力が高い人では、どのような言動で人が嫌な思いをするか、傷つくかなどを良く理解しています。
このため、「いけない、今の一言で相手に謝って不快感を与えたかも」などと直ぐ気づくため、相手に怒られること自体が少なく、もし怒られても意味がわかります。
コミュ障気味の人では、実は自分が明らかに相手に不快感を与えるような言動をしていたり、悲しませるような言動をしていたりしても、相手が怒っている理由に気づかない傾向にあります。
コミュ障気味の人では、人の思いや悩みなどについて、あまり細かく考えられないか、あるいは考えられていてもマジョリティ(大多数の人)と異なる捉え方をすることがあります。
このため、多くの文学や映画に触れても、それらのストーリーや表現がどういった意味や情感を示すのか分からず、興味が持てない人もいます。
こちらもかなりコアな要素です。
あなた、Aさん、Bさんと3名の人間関係があるとするなら、あなたがAさんとBさんをどう思うかだけではなく、AさんはBさんについてどう思うのか、BさんはAさんについてどう思うのかなども考える必要があります。
もっとややこしく言えば、局面により「Bさんが、Aさんについてどう思っているのか」について「Aさんがどう想像しているのか」といったところまで考える必要もあります。
さらには「あえて考えない」「鈍感になる」とする判断もできるのがコミュニケーション能力の高い人です。
集団行動はこうしたややこしい関係の積み重ね・連続です。
コミュ障気味の人ではどうしても苦手になります。
コントなどの「お笑い」では、なぜ笑いが発生するのでしょう。
いくつか解釈はありますが、人々が常識と考えているものと違う落ちがあるため、その意外性によりお客や視聴者が笑ってしまうのです。
たとえば、いかにも「ダサい」人と「おしゃれ」な人がアパレルショップにいるのだが、じつは「ダサい」人が店員だった、といったコントが有ったとすれば、それは「おしゃれな人がアパレルショップの店員に違いない」という常識を利用した笑いなのです。
コミュ障気味の人ではこういった「常識」をなかなか掴みづらいことが多く、お笑い番組やギャグ漫画を見ても「何が面白いのか」「そんなに爆笑するようなことか」などと感じることが多くなります。
算数、数学、あるいは大学における専門的数学や論理学が得意な人は、やや「論理的すぎる」と思われることがあります。
「空気を読む」などとも関連することですが、「1足す1は2であり、2足す2は4である」というような考え方だけをしていると、人間間において円滑なコミュニケーションができないことがあります。
友だちがほとんどいない、いても形式的な友人しかいない、こういった人でもコミュ障気味である可能性があります。
友人関係とは、励まし合うこと、共通の何かを楽しむこと、時には悪い点をあえて指摘してあげること、などお金では測れない価値を与え合うものです。
このようなことは、やはりコミュ障気味の人には構築維持が難しいのです。
「ア」というレストランにいるとき、もし「イ」というレストランのほうが美味しかったと思ったとしても、それをいちいち店員さんや周りのお客に聞こえるように言う必要はありません。
このぐらいならばまだしも、「イ」さんは「ロ」さんよりスリムであり、「ハ」さんはその2人より太っている、などと公言してはいけません。
それが誰の目にも明らかな事実だとしてもです。
コミュニケーション能力を持った上で、悪口・嫌がらせとしてこういう事を言う人もいますが、コミュ障気味の人は「え?ただの事実ではないの?」と思っているだけなのです。
コミュ障気味であると、誰かといるとき「一体何を話したら良いのか」と考えてしまう傾向が強くなります。
コミュニケーション能力が高い人なら「ひとまず天気の話から入ればいいだろう」とか、「最近身の回りに起きたおもしろハプニングの話でもしよう」など、さほど難しく考えずパッとネタが思い浮かぶものです。
そして相手の反応が良いならその話題を続け、そうでもないなら話を切り替えます。
いちいち、「何を話したら良いのだろう」と困ってしまう人は、コミュ障の可能性がありますね。
もっとも、非常に緊張するような関係性にある人の前で、上手く話せなくなくなるのは誰にでもあることです。
知人や上司などが冗談を言ってきた場合、もしそれがつまらなくても、ある程度は笑うなど「合わせる」ことも人間関係において大事です。
人からちょっとしたプレゼントをもらい、それが気に入らなくても「うわあ、ありがとう!」だとか、ある程度の「合わせ」が必要なのです。
ここで、冗談について一切反応しなかったり、プレゼントを貰ってもニコリともしなかったりすると、「なんて冷たい奴なんだ」と思われたり、時には直接指摘されてしまうこともあるでしょう。
たとえば知り合いが待ち合わせに遅刻してきたというとき。
それが30分から1時間ほどであれば、「メールぐらいくれても良いだろう」と若干腹を立てるのも自然です。
しかし、1分間遅れた程度でいちいち怒っていたのでは、「細かすぎる」と言われても仕方がありません。
コミュ障傾向のある人では、こういう話が出ると「ではどこから許せる範囲なのか」「仕事には遅刻してはいけないと言っているのに、なぜ食事なら許されるのか」だとか、とても厳密に考えてしまいます。
買った本に1箇所誤植があるだけでも「おかしい!」と腹を立ててしまったりします。
いわゆる大多数の人であれば、「ページが抜け落ちているなどの問題があれば文句を言うが、1箇所の誤植ぐらいは良いだろう」と考えるところです。
言い換えると、何がわずかな誤ちなのか、周囲の人と判断を共有しにくいとも言えますね。
仮に、目の前に2種類の似た車があったとしましょう。
あなたが総合的に考えると、片方がやや優れていると判断するかもしれません。
そこまでは大多数の人でも考えることです。
しかし、「劣っている方には何の価値もない」とか「優れていない方を買うのはバカだ」とか、すぐ優劣や勝負でものを考えてしまうのが、コミュ障系の人で起きがちな心理です。
ここでコミュニケーションの力がある人では、「劣っていると思われる車でも、誰かが一生懸命設計し、誰かが一生懸命に組み立てて出荷したものだ」とか、「思いやり」の気持ちがあるため、劣っていると思われる車についても「価値がない」とか「買う人がおかしい」とは考えないのです。
人は、文字で表せる言語だけではなく、表情を使ってコミュニケーションします。
されには、身振り手振りなども使ってコミュニケーションしていますね。
また、欧米諸国などに行ったならば現地人の身振り手振りが激しいことも「文化」として理解し、日本では日本なりの身振り手振りを行います。
「口調」なども案外と大事な要素です。
同じ意味の言葉でも、あえて砕けた表現をすべき場面と、かしこまるべき場面とがあります。
コミュ障気味の人では、このような各種表情(身振り手振り、口調変化などを含む)をどのように作ったら良いかいちいち迷ってしまい、結果的に無表情になってしまうことが少なくありません。
決まっているわけではありませんが、多くの人は豊かな緑や海を見れば心を打たれ、それらが汚染されていたりすれば「好ましくない」と感じたりします。
また、いくつかのタイプの動物には、「かわいらしさ」を感じたりするものです。
つまり、人間同士だけではなく、それ以外の存在ともある意味でのコミュニケーション性を持っているのです。
コミュ障傾向のある人においては、「なぜ犬や猫がかわいいと思うのか全く理解できない」とか、「海や湖の何がきれいなのか理解不能だ」などといった心情を持つことも見受けられます。
多くの人は、ある種の「仮面」をつけて生活しています。
そしてその仮面を、場面によって取り替えているのです。
たとえば「大学生で、コンビニでアルバイトしており、実家に住んでいて、近所付き合いもほどほどある」といった場合、雑に考えても4つ以上の仮面を使い分けている人が多いものです。
「大学の友人とは親しく接し、ただの同級生であるならば過剰に干渉しない、コンビニのお客さんには適度に愛想よくしておく、親とは時に激しいケンカをしても良い、ご近所トラブルは避ける」、などですね。
こう書くとややこしいようですが、いわゆる大多数の人はこれを行っており、言い換えると行わずには生活できません。
「仮面を使い分けるとは一体どういうことなのか?」とさっぱり理解できない場合、コミュ障の傾向が強いかもしれませんね。
当てはまる項目をチェックしてみよう
診断結果
- 10-15個
-
あなたのコミュ障度はかなり高いです。
生きづらさを感じることが多いのではないでしょうか。
中傷されることなどもあるかもしれません。
それはそれとして楽しく生活できているなら問題ありませんが、あまり辛いようならばカウンセリングなども考えてみましょう。
- 5-9個
-
「コミュニケーションがやや苦手な人」と診断できます。
ただし、さほど自己卑下したりする必要はありません。
「自分は人付き合いが苦手で」と思い切って知人に言ったり、「人間関係の維持が下手で不器用でも別にいい」と開き直るのも一手です。
- 1-4個
-
このぐらいであれば、いわゆる「コミュ障」とは言えず、ただの個性の範囲です。
気にすることはありませんし、無用に「僕はコミュ障だから」などと触れ回ると、本当に困っている人に迷惑になってしまいますよ。
- 0個
-
こちらはもう、コミュニケーション上手に他なりませんね。
無理やりに言えばあなたの器用さについて「あんなふうに上手く振る舞えない」と落ち込んでしまう人もいるかも知れないですが、そこまでは考える必要もありませんし、当然のように配慮しているかもしれませんね。
まとめ
繰り返しとなりますが、いわゆる「コミュ障」は別に病ではありません。
しかし、今回の診断で「全く当てはまらない」人もいれば、「かなり多く当てはまる」人もいるのが世の中です。
やはり後者の人のほうが生きにくさを感じることが多く、場合としては理由もわからず罵倒されたり、何の悪意もないのに「冷たい」などと誤解されることもあるでしょう。
自分を責めたりせず、フラットに自分のコミュ障度を知っておくことも、悪くはないものです。
「自分はコミュ障ではないか」と疑う人もいますし、「自分はコミュ障だから云々」と決めつけてしまうタイプの人もいますね。
「コミュ障」はざっくりした概念であり、病ではありませんが、コミュニケーション能力が低いなら低いなりの努力もできますし、反対に無理に落ち込む必要もないのです。
チェックしてみましょう。
かなり分かりやすい指標の一つがこれです。
月に何度も「空気が読めない」と指摘される人は、少なくともコミュニケーション能力が高いとは言えないでしょう。
日本特有の「空気」と言われるような曖昧なものを、どう読んだら良いのか。
そこで迷うのが「コミュ障」の人の大きな特徴でもあります。
ただし、異文化圏への留学・赴任から戻ったばかりであるとか、特定の業種や職種の慣習に慣れていないなど、事情によっては誰でも言われることはあります。
コミュニケーション能力が高い人では、どのような言動で人が嫌な思いをするか、傷つくかなどを良く理解しています。
このため、「いけない、今の一言で相手に謝って不快感を与えたかも」などと直ぐ気づくため、相手に怒られること自体が少なく、もし怒られても意味がわかります。
コミュ障気味の人では、実は自分が明らかに相手に不快感を与えるような言動をしていたり、悲しませるような言動をしていたりしても、相手が怒っている理由に気づかない傾向にあります。
コミュ障気味の人では、人の思いや悩みなどについて、あまり細かく考えられないか、あるいは考えられていてもマジョリティ(大多数の人)と異なる捉え方をすることがあります。
このため、多くの文学や映画に触れても、それらのストーリーや表現がどういった意味や情感を示すのか分からず、興味が持てない人もいます。
こちらもかなりコアな要素です。
あなた、Aさん、Bさんと3名の人間関係があるとするなら、あなたがAさんとBさんをどう思うかだけではなく、AさんはBさんについてどう思うのか、BさんはAさんについてどう思うのかなども考える必要があります。
もっとややこしく言えば、局面により「Bさんが、Aさんについてどう思っているのか」について「Aさんがどう想像しているのか」といったところまで考える必要もあります。
さらには「あえて考えない」「鈍感になる」とする判断もできるのがコミュニケーション能力の高い人です。
集団行動はこうしたややこしい関係の積み重ね・連続です。
コミュ障気味の人ではどうしても苦手になります。
コントなどの「お笑い」では、なぜ笑いが発生するのでしょう。
いくつか解釈はありますが、人々が常識と考えているものと違う落ちがあるため、その意外性によりお客や視聴者が笑ってしまうのです。
たとえば、いかにも「ダサい」人と「おしゃれ」な人がアパレルショップにいるのだが、じつは「ダサい」人が店員だった、といったコントが有ったとすれば、それは「おしゃれな人がアパレルショップの店員に違いない」という常識を利用した笑いなのです。
コミュ障気味の人ではこういった「常識」をなかなか掴みづらいことが多く、お笑い番組やギャグ漫画を見ても「何が面白いのか」「そんなに爆笑するようなことか」などと感じることが多くなります。
算数、数学、あるいは大学における専門的数学や論理学が得意な人は、やや「論理的すぎる」と思われることがあります。
「空気を読む」などとも関連することですが、「1足す1は2であり、2足す2は4である」というような考え方だけをしていると、人間間において円滑なコミュニケーションができないことがあります。
友だちがほとんどいない、いても形式的な友人しかいない、こういった人でもコミュ障気味である可能性があります。
友人関係とは、励まし合うこと、共通の何かを楽しむこと、時には悪い点をあえて指摘してあげること、などお金では測れない価値を与え合うものです。
このようなことは、やはりコミュ障気味の人には構築維持が難しいのです。
「ア」というレストランにいるとき、もし「イ」というレストランのほうが美味しかったと思ったとしても、それをいちいち店員さんや周りのお客に聞こえるように言う必要はありません。
このぐらいならばまだしも、「イ」さんは「ロ」さんよりスリムであり、「ハ」さんはその2人より太っている、などと公言してはいけません。
それが誰の目にも明らかな事実だとしてもです。
コミュニケーション能力を持った上で、悪口・嫌がらせとしてこういう事を言う人もいますが、コミュ障気味の人は「え?ただの事実ではないの?」と思っているだけなのです。
コミュ障気味であると、誰かといるとき「一体何を話したら良いのか」と考えてしまう傾向が強くなります。
コミュニケーション能力が高い人なら「ひとまず天気の話から入ればいいだろう」とか、「最近身の回りに起きたおもしろハプニングの話でもしよう」など、さほど難しく考えずパッとネタが思い浮かぶものです。
そして相手の反応が良いならその話題を続け、そうでもないなら話を切り替えます。
いちいち、「何を話したら良いのだろう」と困ってしまう人は、コミュ障の可能性がありますね。
もっとも、非常に緊張するような関係性にある人の前で、上手く話せなくなくなるのは誰にでもあることです。
知人や上司などが冗談を言ってきた場合、もしそれがつまらなくても、ある程度は笑うなど「合わせる」ことも人間関係において大事です。
人からちょっとしたプレゼントをもらい、それが気に入らなくても「うわあ、ありがとう!」だとか、ある程度の「合わせ」が必要なのです。
ここで、冗談について一切反応しなかったり、プレゼントを貰ってもニコリともしなかったりすると、「なんて冷たい奴なんだ」と思われたり、時には直接指摘されてしまうこともあるでしょう。
たとえば知り合いが待ち合わせに遅刻してきたというとき。
それが30分から1時間ほどであれば、「メールぐらいくれても良いだろう」と若干腹を立てるのも自然です。
しかし、1分間遅れた程度でいちいち怒っていたのでは、「細かすぎる」と言われても仕方がありません。
コミュ障傾向のある人では、こういう話が出ると「ではどこから許せる範囲なのか」「仕事には遅刻してはいけないと言っているのに、なぜ食事なら許されるのか」だとか、とても厳密に考えてしまいます。
買った本に1箇所誤植があるだけでも「おかしい!」と腹を立ててしまったりします。
いわゆる大多数の人であれば、「ページが抜け落ちているなどの問題があれば文句を言うが、1箇所の誤植ぐらいは良いだろう」と考えるところです。
言い換えると、何がわずかな誤ちなのか、周囲の人と判断を共有しにくいとも言えますね。
仮に、目の前に2種類の似た車があったとしましょう。
あなたが総合的に考えると、片方がやや優れていると判断するかもしれません。
そこまでは大多数の人でも考えることです。
しかし、「劣っている方には何の価値もない」とか「優れていない方を買うのはバカだ」とか、すぐ優劣や勝負でものを考えてしまうのが、コミュ障系の人で起きがちな心理です。
ここでコミュニケーションの力がある人では、「劣っていると思われる車でも、誰かが一生懸命設計し、誰かが一生懸命に組み立てて出荷したものだ」とか、「思いやり」の気持ちがあるため、劣っていると思われる車についても「価値がない」とか「買う人がおかしい」とは考えないのです。
人は、文字で表せる言語だけではなく、表情を使ってコミュニケーションします。
されには、身振り手振りなども使ってコミュニケーションしていますね。
また、欧米諸国などに行ったならば現地人の身振り手振りが激しいことも「文化」として理解し、日本では日本なりの身振り手振りを行います。
「口調」なども案外と大事な要素です。
同じ意味の言葉でも、あえて砕けた表現をすべき場面と、かしこまるべき場面とがあります。
コミュ障気味の人では、このような各種表情(身振り手振り、口調変化などを含む)をどのように作ったら良いかいちいち迷ってしまい、結果的に無表情になってしまうことが少なくありません。
決まっているわけではありませんが、多くの人は豊かな緑や海を見れば心を打たれ、それらが汚染されていたりすれば「好ましくない」と感じたりします。
また、いくつかのタイプの動物には、「かわいらしさ」を感じたりするものです。
つまり、人間同士だけではなく、それ以外の存在ともある意味でのコミュニケーション性を持っているのです。
コミュ障傾向のある人においては、「なぜ犬や猫がかわいいと思うのか全く理解できない」とか、「海や湖の何がきれいなのか理解不能だ」などといった心情を持つことも見受けられます。
多くの人は、ある種の「仮面」をつけて生活しています。
そしてその仮面を、場面によって取り替えているのです。
たとえば「大学生で、コンビニでアルバイトしており、実家に住んでいて、近所付き合いもほどほどある」といった場合、雑に考えても4つ以上の仮面を使い分けている人が多いものです。
「大学の友人とは親しく接し、ただの同級生であるならば過剰に干渉しない、コンビニのお客さんには適度に愛想よくしておく、親とは時に激しいケンカをしても良い、ご近所トラブルは避ける」、などですね。
こう書くとややこしいようですが、いわゆる大多数の人はこれを行っており、言い換えると行わずには生活できません。
「仮面を使い分けるとは一体どういうことなのか?」とさっぱり理解できない場合、コミュ障の傾向が強いかもしれませんね。
当てはまる項目をチェックしてみよう
診断結果
- 10-15個
-
あなたのコミュ障度はかなり高いです。
生きづらさを感じることが多いのではないでしょうか。
中傷されることなどもあるかもしれません。
それはそれとして楽しく生活できているなら問題ありませんが、あまり辛いようならばカウンセリングなども考えてみましょう。
- 5-9個
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「コミュニケーションがやや苦手な人」と診断できます。
ただし、さほど自己卑下したりする必要はありません。
「自分は人付き合いが苦手で」と思い切って知人に言ったり、「人間関係の維持が下手で不器用でも別にいい」と開き直るのも一手です。
- 1-4個
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このぐらいであれば、いわゆる「コミュ障」とは言えず、ただの個性の範囲です。
気にすることはありませんし、無用に「僕はコミュ障だから」などと触れ回ると、本当に困っている人に迷惑になってしまいますよ。
- 0個
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こちらはもう、コミュニケーション上手に他なりませんね。
無理やりに言えばあなたの器用さについて「あんなふうに上手く振る舞えない」と落ち込んでしまう人もいるかも知れないですが、そこまでは考える必要もありませんし、当然のように配慮しているかもしれませんね。
まとめ
繰り返しとなりますが、いわゆる「コミュ障」は別に病ではありません。
しかし、今回の診断で「全く当てはまらない」人もいれば、「かなり多く当てはまる」人もいるのが世の中です。
やはり後者の人のほうが生きにくさを感じることが多く、場合としては理由もわからず罵倒されたり、何の悪意もないのに「冷たい」などと誤解されることもあるでしょう。
自分を責めたりせず、フラットに自分のコミュ障度を知っておくことも、悪くはないものです。